秩父音頭のふるさと

山峡のまち皆野は秩父音頭発祥の町として知られ、毎年8月14日に行われる「秩父音頭まつり」は秩父連山に太鼓の音がこだまします。
山峡のまち皆野は秩父音頭発祥の町として知られ、毎年8月14日に行われる「秩父音頭まつり」は秩父連山に太鼓の音がこだまします。

2015年の秩父音頭まつりは、こちら
秩父音頭を習ってみませんか?
講習会の案内は、こちら

 秩父音頭まつり

秩父音頭まつり・おまつり広場秩父音頭まつり・スターマイン

日時 8月14日 午後4時30分~9時30分
場所 皆野町役場前おまつり広場
問い合わせ先 秩父音頭まつり実行委員会(皆野町商工会)
電話番号 0494-62-1311
主催 秩父音頭まつり実行委員会
共催 皆野町観光協会、皆野町商工会、ちちぶ農業協同組合、皆野町コミュニティー協議会、秩父音頭保存会
リンク 第47回(2015) 秩父音頭まつり情報
秩父音頭まつり紹介動画

毎年8月14日に、秩父音頭発祥の町として「秩父音頭まつり」が盛大に行われます。
流し踊りコンクールは町・県内各地から毎年約70チーム1,600人を超える出場者があり、本場の秩父音頭が商店街、山々にこだまする中、おまつり広場は出場者と観客の波で埋め尽くされます。また、コンクール終了後に美の山から打ち上げられるスターマインと尺玉連発打は、夏の夜空を彩り、祭りを一層盛り上げています。

秩父音頭を語る

家元・金子千侍

秩父音頭発祥の地 皆野

~秩父音頭のはじまり~
この歌と踊りの発祥については必ずしも定かではありませんが、今からおよそ200年前の文化文政期とされています。この時期は、秩父も地方の時代と謂われる江戸文化経済の流出圏に浴しており、頓に盛んになった観音信仰に随伴して流入した江戸歌舞伎や、秩父人の生業とした養蚕の定着などが、発祥の媒体となっております。つまり、それらを基に振り付けられたこの踊の所作に、歌舞伎の型や、蚕具、習慣などを垣間見ることができます。
昭和初期、長い年月によって変貌衰退したこの踊を、皆野の俳人金子伊昔紅(かねこいせきこう)が、自らの作詞と公募した歌詞、吉岡儀作の節をもって、秩父豊年踊りとして再び公の場に披露したのです。

~踊の特徴~
踊の手振り身振りの中に、秩父人の生業である養蚕や農耕の仕種など、或は、霧に濡れた手鏡を顔に写してみる女の性、そして踊の荒々しい屈伸動作は山峡生活者の足腰の強さを現すなど、厳しい風土と、素朴で強靭な秩父人の心意気が余すことなく盛り込まれています。
お囃は、軽快な小太鼓と、華やかな鉦を底流として哀調切々たる笛が絡み、肺腑を抉る大太鼓に山峡独特のハーモニーを作りだします。正に、踊、唄、囃は三位一体となって、秩父人の情念ともいうべき風土を謳歌するのであります。

秩父音頭について

秩父音頭秩父音頭

秩父の盆は8月である。
人びとは、仏壇や座敷に盆棚を飾り、門口に火をたいて祖先の霊を迎える。

『盆が来たのになすの皮のおじや せめてめずらのよごしでも』
『いくら秩父に田がないとても 盆と正月米の飯』

その昔、秩父で唄われていた、盆踊り唄の一節である。単調で貧しい日々を送る山村では、盆と正月がなによりの楽しみだったに違いない。唄の節や踊りは、人によって少しずつ違っていたが、歌詞は、総じて卑猥なものが多かった。そのため、次第に警察の目が厳しくなり、大正末期には、消滅の危機にさらされる。
昭和4年、皆野町の医師、金子伊昔紅((かねこいせきこう/昭和52年、88歳で死去)は、こうした状態を憂い、周囲に呼びかけて、盆踊りの復興に乗り出した。まず、歌詞を改めるため、一般からの募集を行い、自らも作詞を行う。

『鳥も渡るかあの山越えて 雲のさわ立つ奥秩父』(小林倉八 作)
『花の長瀞あの岩畳 誰を待つやらおぼろ月』(伊昔紅 作)
『秋蚕しもうて麦まき終えて 秩父夜祭待つばかり』(伊昔紅 作)

以上3首は入選作の一部。秩父の情緒と風土の香りが漂う名歌であると思う。素朴だった踊りと節まわしにも手が加えられ、吉岡儀作氏の節をもって山国の荒々しさと哀感とが調和した、現在の姿を生み出す。
そして昭和5年11月、明治神宮遷座10周年祭に「秩父豊年踊り」として奉納。人びとの絶賛を浴びる。その後『秩父音頭』と名を変え、以来ここ埼玉の代表的民謡として、広く親しまれるようになった。その経過の主なものを挙げると、昭和5年11月明治神宮遷座10周年記念に全国著名7ヶ所の古典神事舞の一つに選ばれ秩父豊年踊りの名で奉納。8年帯広市で開催の全国レク大会に秩父音頭として出場第1位。25年4月埼玉県下小中学校の集団体技に採用。同年全国レク大会で民謡部門優秀第1位。関東3大民謡の一つとしての地位を築くに至ったのである。